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(3)ビザ発給後の杉原氏とユダヤ人との再会

カウナスでの一件の後、杉原氏は、プラハ領事館、ケーニヒスブルク総領事館勤務の後、ルーマニア公使館三等書記官として、ブカレストに赴任した。そしてルーマニア赴任中に終戦を迎え、ソ連がリトアニアに侵攻し、杉原氏は、イタリアの外交官らとともに、ブカレスト郊外の、収容所に連行された。日本への帰還は、零下45度の極寒のシベリア大地を鉄道で越えるなど困難の連続であったが、杉原氏のロシア語能力のおかげもあって、無事二年後、日本に帰国することができた。1947年、杉原氏は、「リトアニア事件」(杉原氏の一連の行動に関する外務省の呼び方)によって外務省を去らざる負えなくなり、外交官としての生活にピリオドを打つことになった。免職後、外交官として、外国とのつながりがあったことにより、東京PX(現松坂屋デパート)に総支配人として勤め、その後、NHK国際部勤務、そして貿易会社を、数社転々とした。貿易会社では、全てが、モスクワ勤務であった。
 1968年6月偶然にもカウナスの元ユダヤ難民のジェホシュア・ニシュリ氏と再会した。彼らユダヤ人たちは、戦後すぐに外務省に杉原氏を照会したが、彼らは『センポ・スギハラ』と言う名で照会していたため、見つけることができなかった。
 杉原氏は、ユダヤ人世界では「命の恩人」として尊敬されていた。翌1969年には、カウナスでユダヤ人代表5人の中の一人であった、ゾラフ・バルハフティク元イスラエル宗教大臣から勲章を受けた。杉原氏は1975年まで国際貿易に勤め、1985年には、ユダヤ人国家建設のために功績のあったものに対して授与され、今までに世界中で約800人が受賞し、日本人としては初の受賞となる、「諸国民の中の正義の人賞」(ヤド・バシェム賞)を受賞し、映画で有名となったシンドラーと共にユダヤ人を救った偉大な人として世界的な注目を集めることとなった。
 杉原氏は前記の「自治三訣」に基づいて、世界中のマスコミに取り上げられることは、不快に思っていたことであろう。
 それから杉原氏は、体にも不調が顕著に現れ始め、1986年、杉原氏は鎌倉にて86歳で永眠された。死後、世界中から多くの弔問があり、その中には「スギハラを免官した外務省に抗議する」といった内容のものもあった。
 杉原氏に対する、世界的な知名度の向上にも伴って、日本でも1992年、国会予算委員会において当時の宮沢喜一首相の発言により、名誉回復がなされた。
 このような杉原氏の行動を納めたものの中に、「杉原は、金をもらってビザを書いた。」などというものを始めとして明らかに事実の捏造としか考えられない表記が見つかるのは非常に残念である。

Bユダヤ人避難民にビザ発給
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