Bユダヤ人避難民にビザ発給

杉原氏の功績の内、最も有名なのがナチスの迫害から逃れてきたユダヤ人避難民に本省の訓令を無視してビザを発行した事であろう。
 杉原氏はヘルシンキ在任中の1939年7月、リトアニアのカウナスへ転任、領事館の開館を命ぜられた。
 1940年7月18日早朝、ドイツに併合されたポーランドからの避難民が、リトアニアのカウナス日本領事館の前に集まっていた。
 彼等の大部分はユダヤ人であり、ナチスの迫害から逃れてきたのであった。リトアニアもソ連に勢力下に置かれ、ソ連より閉鎖指令が出されていた。杉原氏もこの指示に従い、閉館業務をしている矢先の出来事だった。
 避難民にとって、ナチスの迫害から逃れる為には最早、シベリア鉄道でウラジオストックへ行き、そこから日本へ渡り、渡米するしか道はなかった。杉原氏はそのユダヤ人の群集の中から五人の代表者を出させて交渉に当った。その中の一人に後のイスラエル元宗教大臣ゾラフ・バルファフティク氏がいたのは有名な話である。杉原氏は五人から現在のユダヤ人の状況を聞き、把握した上で本省へビザ発行の許可を求めた。しかし、本省からの返事は、渡航規則に則って発行せよというものであった。これは命からがら逃れてきた彼等には到底無理な話で、事実上、拒否通知であった。結局、計三回にわたって電報を打ったが、そのいずれもが認められなかった。杉原氏は苦悩の挙句、妻・幸子さんの助言もあって、ある一つの決断をした。千畝手記にはこう書かれている。「私はついに、人道主義・博愛精神第一という結論をえました」避難民へのビザ発給の決断であった。時に7月25日のことであった。
 杉原氏はオランダ領キュラソー島を最終目的地とする特殊なビザを発行した。岩だらけの小さな島であるオランダ領キュラソー島へは、入国ビザが要らず、旅費・滞在費は「ユダヤ機関」から神戸ユダヤ協会に届けられる資金を現地で受け取ることでクリアできる。杉原氏は発行に際し、変則的ではあるが合法的であると自分自身を納得させた。後に、松岡外相の要請により作成され、外務省に保管されていた「杉原リスト」によると、7月9日から8月28日までに発行したビザは2139枚で、ビザは家族単位に出されているので、1枚を家族三人とすれば約6000人もの人々が助かった計算になる。これが6000人の命のビザと言われる所以である。しかし、26日に領事館を閉鎖した後もメトロポール・ホテルにてベルリンへ出発する直前ビザの申請を受け付け、サインと「公館長印」を押した「渡航証明書」を用意し、9月5日の白昼のプラットホームでも出発間際まで彼等に「渡航証明書」を書き続けた。この間までの分は「杉原リスト」には載っていない。列車が動き出した時、杉原氏と再開を約束したジェホシュア・ニシュリ氏も代表五人の一人で、後にイスラエル大使館員として来日し、杉原氏と再会した。そして、これがきっかけとなり、杉原家四男の信生氏がヘブライ大学へ留学することなり、1968年(昭和43年)9月2日の朝日新聞の記事になり、日本において初めて「杉原ビザ」の話がメディアに登場した。

Aソ連入国拒否
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(3)ビザ発給後の杉原氏とユダヤ人との再会
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